ジュウニブンノイチ_Episode 3/12




俺の好きな人、黒井弥夜子さんのこと。




正確にいえば、つきあってるわけでも恋人でもないんだろう。
俺が弥夜子さんを愛していて、弥夜子さんはそれにこたえてくれる。
ただ別にそれが俺以外にもいるというだけの話で。



喫茶店に連れて行ってもらったとき、すぐ隣で同い年くらいの高校生連中が騒いでいた。
ゲラゲラと馬鹿笑いが店内に響いていた。低俗な話題、品のない顔、そのくせ女は化粧を塗りたくっ
て男は髪を染め耳に穴をあけ自分がさも格好のいいものであると疑いもしない。
鏡をよく見ろ、そして死ね。
俺はそういうのが大嫌いでよくそう思っていた。
水滴の付いたコップを握りながら向こうをにらんでいた俺を弥夜子さんは頬杖をついて見ていた。
彼女は極端なものが好きだから、面白かったんだろう。状況が。
アルバイトの店員の女の子が別のテーブルの年配の客から苦情を言われていた。
もうすこしお声を下げていただけませんかって、いって来い、と店長らしき男に言われていた。
その子があまりに真奈花に似ていて、俺はいたたまれなくなってしまった。
その時、頬杖ついて笑っていた弥夜子さんが、お冷をもって席を立った。
高校生たちの席の前に行って、やっぱりにっこりした。
怪訝な顔をした金髪の男が彼女に何か言う。おそらく「何だこのクソ婆?」。
「あたしがクソ婆ならあんたは虫以下ね、知能指数マイナスでしょう?可哀そうに」
「なにこのブスうるさいんですけどー」だらしない口をした女がわめき始めた。
「あなた、鏡見たことある?あなたの顔も体形も世界平均以下よ。可哀そうでならないわ。
声も残念。どうしてそんな不細工な声で話せるのかしら、私なら恥ずかしくて自殺するわ」
弥夜子さんは背格好も声も映画俳優みたいに綺麗なんだ。周りが言い返せなかった。
んだと、と立ち上がった男のほうにめがけて水をぶっかけた。「馬鹿が怒ると手が出るのね」
唖然としてた俺は慌てて割って入った。彼女の前に滑り込んで、飛んできた拳をもろに頬に受けた。



「盾にならなくてもよかったのに」
ようやく冷やし終えた頬を撫でていてくれた弥夜子さんは、悪びれもせずに笑っている。
俺は腕っ節の強いほうでも何でもないから、あのあと弧を描いてきれいにすっ飛んでしまった。
暴力沙汰になったので警察が来た。高校生たちは見事に補導されてしまった。保護者が呼び出され、
弥夜子さんは無表情で親子を眺めながら、「親に謝ってもらうなんて最低ね、やっぱりクズはクズね。」
と、殴ってきた男の耳元でささやいていた。警察のサイレンと親、に対しては反抗できないでぐずり泣
いていたその男。粋がっているくせにそういう力にはたやすく屈服する。
無様だな、と思った。しかし殴られる俺も無様なもんだ。






頬の腫れは一晩で引いた。
それを見た弥夜子さんは「若さってすごいわね」と感激していた。
「…ええと、あんな風に言われて、やっぱりいやでしたよね」
「ああ、ばばあ?気にしてないわよ。語彙が貧相な奴の言葉なんて」
ケラケラ笑って俺の前髪を撫でた。
「いつかは皆老いるのよ。美しく老いればそれは価値になるわ。
若いことが価値ならばみんな成人式に死ななきゃ。そうでしょ?」
俺はいつも言い返せない。弥夜子さんの言葉をそのまま受け取って、飲み込むのに必死だ。
この人は面白いな。いつまでも聞いていたいな。そう思う言葉、言葉。
でも俺の言葉はいつも軽くて、薄っぺらくて、なにかうまいことを言いたいのに空回る。
「いいのよ、十希くんはそのまま大きくなればいいの」
いつもそう言って俺を撫でる。
俺はやっぱり言葉が出なくて、唇ばかりを食べ始める。彼女に教わって一つずつ覚える。
夜はいつもそうやって過ぎていった。


(2010.07 初出)